ドイツの植民地 第6部 大戦への道
ドイツの植民地 第6部 大戦への道
海軍大拡張 目次に戻る
……と、こんな具合にアフリカ、オセアニア、アジアと全世界に広がっていった多くの植民地を維持するためには強力な海軍を必要とする。ドイツは伝統的に陸軍国であって海軍はまことに貧弱なものでしかなかったのだが、1890年にアメリカの戦略家マハンが執筆した『歴史に及ぼした海上権力の影響』で説かれた海軍力の重要性……世界を制するには海を制するべきであり、そのためには巨大な大砲を搭載した巨大な戦艦を必要とする……に触発されたドイツ皇帝とその政府は海軍の大増強に乗り出した。97年に海軍長官に就任したティルピッツ提督(熱烈な海軍拡張論者)の主導のもと、まず98年 に「建艦法」を、続いて1900年に「第2次建艦法」を制定して、1920年までに戦艦38隻を常備するという大計画をぶちあげたのである。
目標はイギリス海軍(当時の世界で最強の海軍)である。当時のドイツは経済的に著しい躍進を示しており、特に重工業は90年代のうちにイギリスを凌駕、20世紀に入る頃のGNP成長率はイギリスの2倍にも達していた(註1)。しかも人口も増えまくっていて国中に若々しい活力が溢れており、これで植民地や海軍に関してイギリス(大国ではあるが既に老いつつある)より劣ったままで我慢しろと言う方が無理な話である。民間では「建艦協会」が組織され、大衆に対して猛烈に大海軍建設の夢を吹き込んだ。ちなみにドイツ政府は97年(建艦法制定の前年)に� �国で膠州湾を租借した時には諸外国に対して「自国艦隊の石炭補給地が必要だから租借した」という説明を行ったが、実際にはそれは逆で、その「補給地」を守るために強力な艦隊が組織されることになるし、世論に海軍拡張の必要性を示すために前もって(建艦法の予算が議会で議論される前に)極東に拠点を建設しておいたという側面もあったのである。
註1 イギリスと比べればしょぼい植民地しか持っていなかったドイツがここまで躍進したということは、つまり植民地というのは実のところ大して本国経済に寄与するものではなかった、ということになる。ちなみにドイツ躍進の主因は、もともと光学・化学・電気といった科学技術に抜きんでていたのに加えて普仏戦争の勝利によってアルザス・ロレーヌ地方の鉄鉱資源を確保したこと、イギリスの産業革命が軽工業から発展していったのに対してドイツの場合は最初から重工業に力点を置いていたこと、工場の立地条件やノウハウに関してイギリス(産業革命の先輩)を手本にしたこと、工業と銀行が密接な協力関係にあったこと……等々があげられる。工業だけでなく農業も、耕作機械や化学肥料の導入によって生産を拡� �していた。
そして、海軍大増強という巨大な内需のおかげで重工業(軍需)が潤うことになり、つまり輸出が多少減っても大丈夫ということになったため、政府は外国農産物の輸入を規制(農業関税をアップする)して国内の農業関係者の支持を集めるという政策に転換した。海軍増強の予算は農業関税による収入をあてればよいのである。ただしこの場合、大工業と農業関係者は儲かるからいいとしても一般の消費者は食糧(農産物)の値上がりに苦しまねばならないため、議会の内外において社会民主党が強く反対論を唱えた。社会民主党は1890年以降の総選挙で常に得票率第1位をキープ(ただし選挙区割や決戦投票の関係で議席数1位にはなかなかなれなかった)して帝国議会における最も強力な野党となっており、政府(経営 者の味方)にとっては苦痛の種であった。そこで政府は、海軍大増強を通じて大工業と農業家を政府の周囲に結集することによって社会民主党を包囲するという方策も考えた。
そんな訳で、政府としてはこれで何もかもが万事順調だ、と言いたいところだが、各産業(の利害を議会において代表する諸政党)の意見は海軍増強という点では一致したものの他の政策では亀裂が多かったし、(1907年の南西アフリカの大反乱に際する総選挙をのぞけば)社会民主党の得票率を抑えることも出来なかった。それよりなによりドイツ海軍の増強にビビったイギリスも海軍拡張に乗り出し、これとの建艦競争を強いられたドイツ政府は(関税アップによる収入だけでは建艦費用を賄いきれなくなって)財政的に困った状況となってしまっ た(それはイギリスも同じだったが)。しかもこのせいで、東アフリカの項で説明した「ドイツとイギリスの同盟構想」が大幅に崩れてしまうのである。それに、ドイツ海軍の大増強は最初は確かに「植民地を維持するため」という名目で始められたし、国民に対しても繰り返しそう宣伝されていたが、実際に建造された艦隊の大半は本国の港に置かれてイギリス海軍と睨み合うことになった。ドイツ政府としては、イギリスを圧迫感を与えることによって相手に独英友好の重要性を認識させるという思惑もあった(ジョセフ・ナイ著『国際紛争』)のだが……。
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露仏同盟 目次に戻る
ここで、何年か時間を遡って解説する。……1894年、ロシアとフランスの同盟が成立した。ロシアは去る1890年に「独露再保障条約」が更新されなかったことでドイツと疎遠になっており、フランスは普仏戦争の恨みをまだ忘れていなかったため、ドイツとしてはロシアとフランスに東西から挟撃されるという非常に悪い事態を想定せざるを得なくなった。フランスとロシアはもともとお互いのことを快く思っていなかった(フランス共和国からみればロシア帝国は時代遅れの皇帝専制国、ロシアからみればフランスは革命的でかるはずみな国)のだが、90年代中頃のフランスの� ��界はかなり保守的な政治家たち(彼らはドイツに対抗するための同盟国を欲していた)によって動かされており、たまたまロシア(後進国で財政が弱い)が91年に着手していた「シベリア鉄道」の建設資金をパリの金融市場に求めてきたのを利用して同盟締結までもっていってしまったのである。フランスはイギリスやドイツとくらべて大工業では劣っていたが、金融や海外投資については大いに発展していて「ヨーロッパの金貸し」と呼ばれていた。
それはともかく、「露仏同盟」が成立した94年には極東で「日清戦争」が起こり、その勝者となった日本に対してドイツ・ロシア・フランスが揃って圧力をかけるという「三国干渉」(註2)が発生する訳だが、これは露仏の目を極東に向けさせることでドイツに対 する圧力を軽減させようというドイツ政府の意図が絡んだ行動であった。ただし、フランスはともかくロシアはドイツに対して特別に悪い感情は持っておらず、せいぜい用心するにこしたことはないという程度の考えでいたし、それからしばらくの間は露仏同盟はむしろ反イギリス同盟として機能することになる。三国干渉によって清国に恩を売った露仏(と独)はそれ以降中国の各地に租借地を設定していく訳だが、これはイギリスの中国利権(註3)を損なう動きであった。
註2 日清戦争で勝利した日本は巨額の賠償金に加えて台湾や遼東半島を獲得したが、独仏露はその日本に対して圧力をかけ、遼東半島を清国へと返還させた。これが「三国干渉」である。ちなみにドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍論(アジア人に対する人種的偏見)」の論者であり、日本に対して脅威を感じていた。
註3 イギリス資本の中国進出は17世紀末から始まり、これに抵抗した清国を1840〜42年の「アヘン戦争」や56〜60年の「アロー戦争」で撃破、最恵国待遇や治外法権、低関税といった諸々の特権を入手して中国を半植民地化していた。
英独同盟構想の破綻 目次に戻る
それから、ドイツは去る82年にオーストリア・イタリアとの間に「三国同盟」を結んでいた。三国同盟と露仏同盟の力は均衡がとれており、これとイギリスの3大勢力がうまくバランスをとって鼎立している間はヨーロッパの国際政治は安泰である(大国間の大規模な戦争が起こったりはしない)と思われた。イギリスはヨーロッパ(大陸)の国際政治への深入りを嫌い、どの国とも同盟しないことで勢力均衡を保つ(単一の勢力だけが強大化してヨーロッパの平和を乱すような事態を阻止する)という「栄光ある孤立」を国是としていてた。ドイツは90年代前半にイギリスに対して繰り返し友好を求めて接近したが、いづれもそっけなくされてしまった。
しかし90年代の後半に入るとまた情勢が変わってくる。まずフランスが、アフリカ大陸の大西洋岸とインド洋岸を自国の植民地で繋ごうという「大陸横貫政策」を推進したことによって、同じくアフリカ大陸南端のケープ岬から大陸北端のエジプトを繋がんとしていたイギリスの「大陸縦貫政策」と激しく対立、さらに三国干渉後に著しくなったロシアの極東進出はイギリスの中国利権を強く脅かした。また、1899〜1902年にアフリカ南部で発生した「ボーア戦争」ではイギリス軍は予想外の苦戦を強いられた(註4)。これらの問題を1国だけでは処理しきれなくなってきたイギリスは「栄光ある孤立」の放棄を決意し、ドイツに同盟交渉を打診した。
註4 アフリカ大陸の南端部はもともとオランダの植民地であったが19世紀初頭にイギリスに征服された。そこに住んでいたオランダ系移民(ボーア人)はイギリスの支配を嫌って北方へと逃れ、「オレンジ自由国」「トランスヴァール共和国」という2つの国を建設した。しかし19世紀後半になるとそこで豊富な鉱物資源が発見されたため、イギリスの侵略を受けた。これが「ボーア戦争」である。最終的にはイギリス軍が勝利するのだが、苦戦の連続だったうえに、あまりにも露骨な(白人の国に対する)侵略戦争だったことから国際的な非難が巻き起こった。
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ところがドイツは、イギリスのためにロシアと戦争させられる可能性を嫌ってこの話を敬遠した。ドイツはイギリスと仲良くしたいとは思っていたが、かといって拘束されたくはなかったのである。そこでイギリスは、ロシアの極東進出に対抗したがっていた日本と同盟を結ぶことにした。これが1902年である。ドイツが海軍を大増強していたのはまさにその頃のことであり、そのドイツとの同盟交渉に失敗したイギリスとしては、(ロシアのみならずドイツに対抗するためにも)それなりの海軍力を保有している日本に期待したくなるのは当然の成り行きであった。
で、イギリスとの同盟に勇気づけられた日本は1904年に「日露戦争」を起こす訳だが、イギリス(日本の同盟国)とフランス(ロシアの同盟国)� �この戦争に自分たちが直接巻き込まれるのを避けるため、戦争勃発の2ヵ月後に「英仏協商」を締結、劇的な握手を交わした。ドイツとしてはイギリスとフランスは植民地の獲得競争における永遠のライバルであって絶対に和解することはないと信じており、両国の対立関係を利用することで漁父の利を得たいと思っていたのに、その思惑が外れてしまったのである。まぁもっとも、フランスはともかくイギリスとしては英仏協商というのは直接的にドイツと対決するためのものではなかったし、フランスにおいても、おりにふれて「普仏戦争の報復」という論が吐かれていたのは確かなのだが、それが即座にドイツとの戦争を意味するのかというと、そうでもなかった。この頃の独仏間には特に重大な係争は存在しなかったのである。
三国協商の成立 目次に戻る
しかしドイツは1905年、フランスによる植民地化の危機にさらされていたモロッコに皇帝みずからが乗り込んでその独立を擁護するという「タンジール事件」を引き起こした(註5)。その頃の日露戦争の戦局はロシア(フランスの同盟国)に不利であったことからドイツ政府としてはここでフランスに一撃を喰らわせてもそう激しい抵抗はあるまいと思った(「ドイツは全戦力をもってモロッコの後ろ盾になる」とか言いたてた)のだが、国際世論がフランスに味方した(フランスはモロッコを狙うにあたって諸外国に抜かりなく根回ししていた)うえに、そういうドイツのやり方に反発したイギリスはフランス・日本との関係をより強化した。
註5 これについての詳しい話は当サイト内の「モロッコの歴史」を参照のこと。
結局ドイツはモロッコでは大して得るものがなかった。それだけならまだしも、日露戦争終結後の1907年には「英露協商」が成立したことにより、ドイツは英仏露のいわゆる「三国協商」に包囲される態勢となってしまった。ここでイギリスとロシアが結んだ理由は……、日露戦争で日本に負けたロシアはもはやイギリスにとってさしたる脅威ではなくなってしまったし、フランスが両国の仲を取り持つことで味方を増やそうとしたからである。英仏両国(特にフランス)はロシアに対して巨額の借款を提供してその歓心を買っている。実はドイツもロシアと結ぼうとしたのだが、露仏同盟の成立以来フランス資本に依存していたロシアはドイツからの誘いに(フランス様の機嫌を損ねると困るので)乗らなかった。
� �かもドイツは1888年以来中東(オスマン・トルコ帝国領)への経済進出を熱心に行い、1901年以降はドイツ資本のバグダード鉄道の建設を進めていたのだが、これはイギリスにとってもロシアにとってもむかつく行動であった。バグダード鉄道(ドイツ首都ベルリンからオスマン帝国領イラクのバグダードまで一直線)はイギリスとその最重要植民地インドの連絡路を脅かし、ロシアが伝統的にもっているバルカン・中東への野心を損なうものであったからである。ちなみにバグダード鉄道の建設が始まった1901年というのは日露戦争勃発の3年前で、ロシアの目が極東に集中していた頃であったため、ドイツとしてはその隙に乗じたつもりであった。
その一方で、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」が� �れてきた。北アフリカのリビアを植民地化したがっていたイタリアは1902年フランスとの間に「フランスはモロッコを植民地化し、イタリアはリビアを植民地化する、そのことについてお互い文句はいわない」という協定を結び、そのせいでドイツとは疎遠になってきたのである。そもそもイタリアという国はオーストリアとの間に領土問題を抱えており、三国同盟に参加したのは植民地の獲得競争でフランスに対抗するためであった(註6)ので、そのフランスとの協定が出来た以上は同盟に留まり続けるいわれはなかった。
註6 イタリアは最初はチュニジアを植民地化するつもりでいたが、1881年にフランスに先をこされてしまったため、フランスを深く恨んでいた。
汎スラブ主義と汎ゲルマン主義 目次に戻る
ボストン、ワシントンDCの間で何マイルです。
そんな訳で、1908年頃のドイツと良好な関係を持つ国は(ある程度以上の強国に限定すれば)オーストリアだけになってしまった。そのオーストリアは国内にスラブ系の少数民族(例えばセルビア人)を抱えており、それら(少数民族)はオーストリアの外のスラブ系諸国(例えばセルビア王国)と連携したがっていて、そのようないわゆる「汎スラブ主義」の背後にいたロシア(スラブ系の最強国)とオーストリアの関係は悪化する一方であった。そして国際的に孤立しつつあるドイツ政府はこの件に関してオーストリアを支援することで数少ない同盟国をつなぎ止めなければならないと感じていたし、(ドイツの)一般世論においても、 ゲルマン民族(ドイツ及びオーストリアの主要民族)はいずれスラブと戦わねばならんのだと唱える排外的ナショナリズム、いわゆる「汎ゲルマン主義」が高まってきた。
しかしそうはいっても、オーストリアとロシアの間に(民間は別として政府レベルでは)協調の余地がなかった訳ではない。というのは……、
オーストリアは去る1878年以来セルビア人の多く住むボスニア州とヘルツェゴヴィナ州(どちらもオスマン帝国領)の行政を管理していたのだが、1908年にオスマン帝国で政変が発生したのに乗じて両州の併合を宣言、同時にロシアもオスマン政府に対しボスポラス及びダーダネルス海峡(地中海と黒海のつなぎ目)の艦隊航行権を要求した。実はオーストリア政府とロシア政府はこの件に関して事前� �打ち合わせをして歩調を合わせていた。
しかし、まずセルビア王国がオーストリアに対して激怒、ロシアの一般世論も汎スラブ主義の観点から激しくオーストリアを非難した。こうなってしまうとロシア政府としてもセルビアに味方してオーストリアを非難せざるを得なくなった。するとドイツがオーストリアの肩を持ち、ロシアに対して最後通牒に近い通告を送ってくる。こういう局面でロシアを助けるべきイギリスとフランスは、ロシアがボスポラス及びダーダネルス海峡の艦隊航行権を要求したことに怒っており、何もしなかった。「三国協商」の団結は実はそれほど強固なものではなく、英仏としてはロシアが必要以上に強大化するような事態は阻止する意向だったのである。ロシア海軍が黒海から地中海に進出してくる� �んて言語道断である。
結局、ロシア(とセルビア)はオーストリアの2州併合を(ドイツの脅しに屈したという形で)承認せざるを得なくなった。その後のロシア政府はオーストリアとの対決姿勢を強く打ち出すようになり、1912年5月にはバルカン諸国(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシアの4ヶ国)を結集した「バルカン同盟」を組織してオーストリアに対する防壁とした。しかしバルカン同盟の諸国はロシアの期待とは裏腹に、北のオーストリアよりも南のオスマン帝国(こっちの方が弱い)の領土を狙いたがる傾向が強かった。(セルビアは反オーストリア色が強かったが、ブルガリアやギリシアはそうでもなかった……そもそもオーストリアと国境を接していない……のである)
陸軍増� �� 目次に戻る
その一方で1911年7月、ドイツは再びモロッコに軍艦1隻を派遣し、フランスによるモロッコ植民地化を認めるからそのかわりにフランス領コンゴを寄越せと言い出した。当時フランスは国内問題で揉めていたのでドイツとしてはその機に乗じたつもりであり、ロシアも……3年前のボスニア問題の時の仕返しなのか……フランス不支持を表明したが、イギリス(こちらも国内問題に苦しんでいたが)が断固としてフランスを支持した。結局ドイツは大騒ぎした末にフランス領コンゴの一部を貰ってカメルーン植民地に編入しただけで手打ちとした。それにしても、ここしばらく海軍を大増強していたにもかかわらずその大艦隊がモロッコへと出撃する訳でもなかったことはドイツ世論をいたく失望さ せ、海軍よりも陸軍を増強せよとの声が高まった。そこでドイツ政府はこの声に応えるという形で海軍増強(非常な財政負担)にブレーキをかけ、そこからイギリスとの協調路線に繋げるという策を考えた、のだが……、
続いて1912年10月、バルカン同盟がオスマン帝国に宣戦布告、「バルカン戦争」が勃発した。バルカン同盟軍はフランス顧問の指導を、オスマン帝国軍はドイツ顧問の指導をそれぞれ受けており、前者が圧勝した。このニュースを聞いたドイツでは「陸軍増強!」の世論に弾みがかかり、1913年6月に帝国議会を通過した陸軍増強法案は1871年以来最大規模のものとなってしまった。それから、バルカン戦争後のバルカン同盟は戦利品の分配を巡ってセルビア・モンテネグロ・ギリシアとブルガリ アが喧嘩(第2次バルカン戦争)になり、前者が勝利した。敗れたブルガリアはドイツに頼ることで態勢立て直しをはかった(ドイツの友好国が一個増えた)が、それより、2度のバルカン戦争を通じて国土を拡大したセルビアに対するオーストリアの警戒心が増大した。
時間的に前後するが、1912年にはイギリスの方からドイツに関係改善を求めてきた。ドイツ帝国議会は海軍に関しては政府の目論見通り拡張ペースを落とすことを決議し、以後しばらくの間は英独関係は緩和へと向かうことになった。しかし上の段落で説明したように、軍拡が止まった訳では決してないのである。当時のヨーロッパではどの国も軍備の増強に力をいれていたが、例えばイギリスの1914年の総軍事費が1880年の約3倍、同時期のフランスが2倍弱、ロシアが3倍弱だったのに対し、ドイツのそれは5倍以上にも達していた。そして、ドイツはそれだけ金をかけてもまだ不安だったのである。
シュリーフェン計画 目次に戻る
ド� ��ツ陸軍はそのころ急激に進んでいたロシア軍の近代化(1916〜17年に完成の予定だった)を強く警戒しており、参謀総長のモルトケ将軍などは「戦争は早ければ早いほどドイツに有利になる(ロシア軍の近代化が完成する前に叩くべし)」と唱えていた(14年6月に吐いた台詞)。その場合、ロシアの同盟国であるフランスの参戦を呼び込む公算が大である(とドイツ陸軍参謀本部は信じ込んでいた)のだが、参謀本部としては、むしろまず先にフランスに一撃を与えて屈服させたうえでロシアに向かうという「シュリーフェン計画」を構想していた。ロシア軍はドイツ軍やフランス軍と比べると後進的で兵員の動員に時間がかかるであろうから、ロシアがもたもたしている間に全力でフランスを叩き、そのあと速やかに全力を� �に振り向けてロシアを叩くという訳である。まぁしかし、ドイツがロシアに宣戦したとしても本当にフランスがロシアを助けに入るかどうかは(1908年のボスニアや1911年のモロッコの事例を見れば分かるように)微妙なのだが……。それともうひとつ、イギリス……緊張緩和に向かいつつあるとはいえ……の動きが心配であったのだが、1914年前半頃のイギリスは植民地アイルランドの自治問題で紛糾していたため、ドイツとロシア・フランスの戦争に介入してくる可能性は低いと思われた。
その一方で、1912年の総選挙では社会民主党が大勝した。前にも説明したが、この選挙でとうとう帝国議会の第1党になってしまったのである。それでも政権には入れなかったのだが、社会主義勢力の伸長を警戒した工� �界は政界に対して労働運動の規制を要求し、13年には不況が発生したこともあって労使関係が緊迫した。
かような内外の情勢に危機感を抱いたドイツの支配者層の間では、未来への様々な不安を一気に吹き飛ばすための手段という意味でも戦争を期待する機運が高まってきた(ドイツ史3)。当時は戦争というものはそんなに悪いものだとは感じられておらず、むしろスポーツや狩りの延長、あるいは退屈かつ不寛容な現実世界から冒険や同志愛といったものへの逃避であるという意識が強く存在していた(ブライアン・ボンド著『イギリスと第一次世界大戦』)。また、この時代のヨーロッパでは自然科学者のダーウィンが唱えていた「生存競争」「適者生存」「優勝劣敗」といった概念を人間社会にあてはめる「社会ダーウ� �ニズム」が流行しており、国家関係においても「強者が優越すべきだ」、そのためには「平和を気にする必要がどこにあろうか」という考えが広まりつつあった(ジョセフ・ナイ著『国際紛争』)。上の方で述べたように1890年以降のドイツは工業が躍進し人口も増え続けていたため、ここしばらくの外交面での手詰まりはフランスやロシアのような老大国がドイツという若々しい新興帝国(註7)に嫉妬しているせいではないかという印象も持たれていた。
註7 ドイツという地域はもともと中小の諸国が乱立していたが、1871年にプロイセン王国による統一が成し遂げられることによって新国家「ドイツ帝国」が成立したのである。その後の20年間で800万、次の20年間で1600万というハイペースで人口が増え続け、1914年の総人口は6700万に達していた。ちなみに同時期のフランスの人口は約4000万である。
ただ……、詳しくはおいおい述べていくが、独英露仏というヨーロッパを代表する4つ大国の、少なくとも政府レベルでは、1914年6月の段階になっても、いますぐ戦争がやりたい(やらなければならない)と思っている国は1つもなかった。つまり……、これまでに説明してきたような諸国間の諸々の対立や内政面での不安は、戦争以外に解決方法が存在しないような切実深刻な大問題という訳ではなかったのである。その頃(14年6月)には独英関係はさらによくなっているという感触が強くあり(前掲書)、イギリス戦艦4隻がドイツのキール軍港を訪問するという出来事すらあった。が、1908年のボスニア問題はロシア・セルビアの譲歩によって決着、11年のモロッコ問題はフランスの譲歩によって決着(ド イツ側も譲歩したつもりでいた)という具合にして外交懸案を処理しているうちに、「なぜわが方のみが譲歩しなければならないのか」「どうして相手方にさらに譲らせることができないのか」という欲求不満が高まってきていた(前掲書)し、独英露仏の4強以外には、是が非にでも荒事がやりたいと思っている国が約1ヶ国あったのである。
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