資本論を読む - 第1部第3篇第8章第1節 - 労働日の諸限界
第1部:資本の生産過程
第3篇:絶対的剰余価値の生産
第8章:労働日
労働日は不変量ではなく可変量である。その二つの部分のうちの一方は、確かに労働者そのものの持続的な再生産のために必要な労働時間によって規定されているが、しかし、その全体の大きさは、剰余労働の長さまたは継続とともに変動する。それゆえ、労働日は規定されうるものではあるが、それ自体として規定されているものではない。[246]
それでも1日は24時間しかないのだから、労働日の最大限界は存在するわけだ。一方でマルクスは、資本主義的生産様式を基礎としているかぎりは労働日の"最小限度の限界"というものはない、と断言している。必要労働時間だけ、つまり剰余労働時間がゼロとなる労働日は、資本主義社会には存在しないというわけだ。
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マルクスは、労働日の最大限度を制限する規定を二つあげている。労働力の肉体的制限と、社会的制限である。
人間は、24時間からなる1自然日のあいだには、一定分量の生命力しか支出できない。……1日のある部分のあいだにこの力は休息し、睡眠をとらなければならず、また他の部分のあいだに人間は食事をし、身体を洗い、衣服を着るなどの他の肉体的な諸欲求をみたさなければならない。……労働者は、知的および社会的な諸欲求の充足のために時間を必要とするのであり、それら諸欲求の範囲と数は、一般的な文化水準によって規定されている。[246]
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労働力の買い手である資本家は、その労働力の消費について全権をにぎっている。彼が購入した労働力という商品をどういうふうに使うかは、買い手である資本家の権利である。さらに、彼が投資した資本は、その機能上不変資本と可変資本とに分かれるけれども、いずれも、"対象化された労働"であって、"凝固した、死んだ労働"である。"生きた、流動する労働"なしには、資本は資本たりえない。すなわち価値は自己増殖を行なわない。剰余価値は生み出さない。だから、資本家にとっては、労働力の消費という"生きた、流動する労働"の継続こそ"命"なのである。必要労働時間をどれだけ超えて、労働を継続させることができるか、すなわち剰余労働時間をどれだけのばすことができるか、あるいは、剰余労働時間の必� ��労働時間にたいする割合をどれだけ大きくすることができるかということが、資本家の欲求となる。
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労働力の売り手である労働者は、市場において同等の商品所有者として資本家に相対している。労働者が売るのは「労働一般」ではなく、あくまで「労働力」である。その労働力の価値を規定するものは、労働力の再生産に必要な生活手段価値であり、すなわち労働力を内在させている労働者の生存の維持と再生産に必要な生活手段価値である。だから、労働者は、こう主張することができる。
私は、……私の唯一の財産である労働力を管理し、そのばかげた浪費はいっさい節制することにしよう。私は毎日、労働力の正常な持続と健全な発達とに合致する限りでのみ労働力を流動させ、運動に、すなわち労働に転換しよう。……私の労働力の利用とそれの略奪とは、まったく別のことがらである。……私は標準労働日を要求する。なぜなら、私は他のすべての販売者と同じように、私の商品の価値を要求するからである。[248-9]
労働日を規定する労働力の消費時間。その労働力の買い手である資本家と、売り手である労働者とのあいだには、商品交換の法則上、利害の対立が生じる。必要労働時間は、その社会の平均時間がそのときどきで規定されうるが、剰余労働時間は、けっきょく、資本家と労働者との力関係、おのおのの強制力の加減に大きく左右されることになる。だから、その意味では、剰余労働時間には限界がない、というふうに言える。また、労働日の標準的大きさというとき、それは社会的標準として表わされるから、資本家と労働者とは、たがいに個人対個人として相対立するのではなく、その社会の資本家総体と労働者総体として相対立することになる。
資本家が労働日をできる限り延長し、できることなら1労働日を2労働日にしようとする場合には、彼は、買い手としての彼の権利を主張する。他方、売られた商品の独特な本性は、買い手がこの商品を消費することへのある制限を含んでいるのであって、労働者が、労働日を一定の標準的な大きさに制限しようとする場合には、彼は売り手としての彼の権利を主張する。したがって、ここでは、どちらも等しく商品交換の法則によって確認された権利対権利という一つの二律背反が生じる。同等な権利と権利とのあいだでは強力がことを決する。こうして、資本主義的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の諸制限をめぐる闘争――総資本家すなわち資本家階級と、総労働者すなわち労働者階級とのあいだの一闘争――とし� ��現われる。[249]
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